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放送

コロナ禍の只中で2021年になりました。

状況はますます混沌としていますが、少しでも明るい年になりますように。

今年もよろしくお願い申し上げます。



私の話で恐縮ですが、昨年6月から、

〈 NPO法人・放送批評懇談会 〉の中で微力ながらお役目を賜るようになりました。


父は、戦後間もない中学生の時に、NHKラジオ「日曜娯楽版」にコントの投稿を

始めたのをきっかけに、番組の主催者・三木トリローさんのお目にとまり、

そこからテレビジョンの実験放送に立ち合い、テレビ局の開局に関わって、

早稲田大学時代にはすでに売れっ子放送作家になっていました。

そこから数々のテレビ番組、ラジオ番組を作り、出演し、

他界する10日前まで自身の名前のついたラジオ番組を持っていましたから、

83年の人生のうち、実に70年ほどを放送業界で生きていたことになります。


そんな父のもとで育って、私自身は局アナとしての仕事は8年間。

その後は子育て中心で、それほどしっかりと放送の世界にいたわけではありませんが、

放送批評懇談会に参加させていただくようになって、思い返している言葉があります。


今回の《ろくすけごろく》は、私がアナウンサーになった時にも心に留めた父の言葉。


「放送」は「りっし」になってはいけない。

(説明するのも野暮ですが、「放」と「送」を逆にした言葉です。)


元々、学生時代に民俗学に興味を持っていた父は

民俗学者の宮本恒一さんに師事していました。

宮本先生のフィールドワークについて行き、勉強していましたが、

放送作家としての仕事が忙しくなるにつれ、

大学を中退して放送の世界に本腰を入れると決めた時に、

宮本先生からいただいた言葉がありました。


放送の世界で仕事をするなら、

全国どこへでも、電波の飛んで行く先に出かけて行きなさい。

そこで受け取ったこと、考えたことを持ち帰って、発信しなさい。

スタジオでものを考えていてはいけない。


六輔青年は、この教えを座右の銘として、生涯守っていたと思います。

晩年は、パーキンソン病で自由に旅ができなくなりましたが、

それまでは、日本中、そして海外も、とにかく出かけて行った先で、人に会い、

見聞きしたことを持ち帰って、スタジオで話し続けていました。


私は、父のようにはなれませんし、たいしたことはできませんが、

父が長年関わっていた放送業界の今とこれからを見守り、

そこで何かを作り出す人たちを励ますことを通して、

今年も、ほんの少しでも「放送文化」のお手伝いをしていけたら、と思います。



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​文:永麻理

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