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​文:永麻理

父と子

明日は《父の日》です。


私の父は父親っ子だった印象があります。

祖父も父も互いに照れる人なので、

いかにも”仲良し”という振舞いはなかったものの

父は自分の父親を敬愛していて、

永六輔の考え方、生き方の根幹に、

僧侶だった祖父の精神が大きくあったことは確かです。



今回は「父と子」についての雑感

まずは祖父、永忠順のエッセイ(1976年)から




今にしてふりかえってみると、 わたしなど、あれもこれもと思いながら、 子どもたちに対して、何ひとつ満足なことをしてやれたことはありません。 自信がないと言われれば、そうかもしれないけれど、 自信などというものは、とかく客観性のない場合が多いもので、 子どもの躾けや教育にかぎらず、 ヘタな自信などで行動してはいけないと思っています。 子どもたちも、今はみんな親になりました。 親である彼らが子どもを生んだのではなく、 子どもが生まれることによって彼らも親になったのでしょう。 子どもを躾け、教育しようというのならば、 子供に躾けられ、教育される覚悟があってしかるべきだと思います。



祖父は四男二女の父親で(六輔は次男)

以前の《ごろく》にも書きましたが、

「親が子どもにしてやれる一番のことは子供の邪魔をしないこと」

という方針を貫いた人でした。




子どもたちについての思い出などというものは、 彼らが成人してしまってからのそれよりも、 まだほんとに子どもであった頃のそれのほうに、 より強いものがあるような気がする。 それは、あの敗戦前後の混乱と窮乏の時代に少年少女であった彼らの、 なにげない言葉やしぐさにふと感傷を覚えた親の心が、 子どもの知る知らないには関係なしに、 いつまでもその旋律をやめないでいるからなのであろうか。 (中略) 小沢昭一さんが「ハーモニカが欲しかったんだよ」という歌を 歌うのを聞くと、そのたんびに、ウチの老妻は涙を流す。 小沢さんと次男とがダブってしまうらしいのである。 ハーモニカという、子どもにとっていちばん手頃で、 それでいて何でも吹ける楽しい楽器。 だらしのない話だが、ひところのわたしたちには、 それを買ってやれる余裕はなかったのである。 中学一年生のアルバイトなど、いくらにもなるものでもなかったが、 そんなことをしてやっと買えた安ハーモニカを、 次男は大事にして、学校へ行くのにも鞄のなかに入れていた。 そして、帰るときには、それを吹きながら帰ってくるのである。 敗戦後の、まだ瓦礫と塵芥の散らばる道を、 頭をふりふりハーモニカを吹いてくる次男坊が肩にかけた ズックの鞄の紐の白さを、わたしは今でも思い出す。 (中略) 子どもたちはもう、こんなことはとっくの昔に 忘れてしまっているに違いない。 しかし、今のわたしにとっては それは「たからもの」のような思い出なのだ。




あたりまえのことですが、

父は私が生まれた時にはすでに「父親」でしたから

私は子どもの父も、独身の父も知りません。

でも、こうして祖父が書く「子ども」としての父、

ハーモニカの少年の姿を想像すると

文中の「老妻」つまり祖母と同じく

つい涙が出てきます。



この祖父の文章を受けての父の言葉です。



ハーモニカを吹く次男坊はぼくである。 いまから考えると、 「子どもに何もしてやれなかった」という親の言葉は 「子ども」を「親」にかえて。そのまま親に返したい。 「親に何もしてやれなかった」どころか、その心を察することもできなかった。 空腹な子どもをかかえた親の辛さは、大人になって、やっと理解できたことだった。 父のエッセイでは、子どもに対して躾けも教育もしなかったとある。 でも、ぼくは、父や母の生きかた、そして浅草の町で人とのつきあいを学んで、 育ったつもりである。 私も今、生前の両親に何もできなかったな、と思います。 何が「親孝行」になるのかも人それぞれでしょう。 でも、父に関して言えば、 意図せずして結果的にちょっと親孝行できたのかも、 と思い出すことがひとつあります。 父が他界する前年、2015年のことです。 世の中では安全保障関連法案をめぐって大きな議論になり 国会前では連日デモが行われていました。 国会での強行採決がほぼ確実という9月18日、 とにかく何もしないわけにはいかない、と思い 雨が降るなか、私も国会前のデモに加わりました。 そしてふと、1960年安保闘争のとき、若かった父が デモに参加していたことを思い出し 何の気なしに、父に電話をかけました。 当時の父は、パーキンソン病を患って 身軽に出かけられる身体ではありませんでした。 「麻理です。いま、国会前にいまーす」 「へ〜〜〜えっ!?」 父は、夕方のテレビニュースをつけていて、ちょうど 画面には国会前のデモの様子が生中継されているところでした。 私の周りのシュプレヒコール、 「強行採決絶対反対!!」「9条守れ!」の声が 電話を通じて父の耳に届き、 「本当だ、テレビの中継と電話、両方から聞こえる」 と笑っていました。 私は、周囲のデモの状況を伝えましたが 父は「雨が降ってるでしょう。無理しないで適当に引き上げなさいよ」 と、ほどなくして電話を切りました。 短い通話だったけど現場報告してよかった、と思い 靴の中まで雨でびちょびちょになりながら もうしばらくそこで過ごしましたが、帰宅途中にはもう 安保関連法案が強行採決されたニュースが流れていました。 翌日は土曜日でした。 朝、父がやっていた生放送「土曜ワイドラジオTOKYO」をつけると 冒頭から、この安保法案強行採決の話。 外山アナの「昨日は国会周辺の反対デモも凄かったですね」に 父は「ウチはね、娘が行ってくれたの、ぼくの代わりに」 と随分と明るい声で嬉しそうに話しているではありませんか。 前日の電話では淡々としていたので このラジオでの声を聞く瞬間まで、 そんなに喜んでいるとは思っていませんでした。 そうか、本当は自分が駆けつけたかったはず。 私が思っていた以上に、父は家でいてもたってもいられない気分で デモのニュースを見ていたんだ、と思い至りました。 私がデモに参加して一人増えたところで、結果は同じ。 それでも行かないよりは自分の気が済むから、 というくらいのことでしたが、思わぬ親孝行になったような気がしました。 同時に、無理をしてでも車椅子で連れて行くべきだったのではないか、 とも頭をよぎりましたが、 「いや、雨だったし、しかたない。生放送の前日に疲れさせてはいけないし」 と雨を理由に自分に言い訳したのでした。 あの雨は、私にとっては優しい雨になったわけです。 この時のことを思い出すと、なんだか 今さらながらこみ上げてくるものがあります。 来月は参議院選挙です。 空襲で焼け野原になった瓦礫が残る町を 大事なハーモニカを吹きながら歩く少年を想いつつ 投票に行きます。 《 亡き父・忠順に寄せての一句 》 若き日の父と語るや夜長かな(1990年8月) ☆小沢昭一さんの「ハーモニカ・ブルース」 こちらで聴けます。 https://www.youtube.com/watch?v=IuUCfB1sRUU





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