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​文:永麻理

生きているということは

東日本大震災から10年。 あの日、東北地方とくらべたらずっと被害の少なかった東京でも、 強い揺れの中で「もしかしたら、ここで死ぬのかな」と 一瞬、死を意識したことを覚えています。 そして、世界が新型コロナウィルスに翻弄されるようになってからの この1年以上、自分だっていつどうなるかわからない、 と思いながら過ごしてきました。 そして3月といえば、父が必ず思いを馳せていたのが 3月10日の東京大空襲。 この日も多くの尊い命が失われました。 私も忘れないように、ここで触れておきます。 今日の《ろくすけごろく》は歌詞です。 「生きているということは」というこの歌は、 ある意味、永家に伝わる家訓のような側面もあって、

娘から見ても、父はこの通りの生き方をしていたな、と思います。



《生きているということは》


  生きているということは   誰かに借りをつくること   生きていくということは

  その借りを返してゆくこと   誰かに借りたら誰かに返そう   誰かにそうして貰ったように   誰かにそうしてあげよう   生きていくということは   誰かと手をつなぐこと   つないだ手のぬくもりを   忘れないでいること   めぐり逢い愛しあいやがて別れの日   その時に悔まないように   今日を明日を生きよう   人は一人では生きてゆけない   誰も一人では歩いてゆけない   生きているということは   誰かに借りをつくること   生きていくということは   その借りを返してゆくこと   誰かに借りたら誰かに返そう   誰かにそうして貰ったように   誰かにそうしてあげよう   誰かにそうしてあげよう   誰かにそうしてあげよう




私がよく覚えているのは

父は誰かに何かしてもらったとき、

(相手にその意識があってもなくても、父自身がその人から、

 感謝したくなる「何か」を受け取ったと思ったら)

そのことにどんなお返しができるか、

なるべく自分にしかできないような形の返し方を考えて

必ず返していたこと。

それも、モノで返すのではなくて、

多くの場合、行動で返していたこと。


別の言い方をすると、父は

誰かに「借り」を作って、それがたまっている感覚は心地悪く、

心の中にチェックリストでも作っているかのように、

なるべく早くその状態をなくそうとしていたようにも見えました。


逆に、父が何かしてあげた相手が恩を感じて返そうとすると

その人が若い人であれば

「僕に返さないで。

もし、ありがたいと思ってくれるなら、

誰かに同じことをしてあげて」

と言っていたこともよく覚えています。


もう一つ、この歌詞を見ると思い出すのは、

六輔サンは何歳になっても、妻と2人で歩く時、手をつないでいたこと。

妻に先立たれるまで、ずっとそうでした。


この歌は、中村八大さんが曲をつけてくださって父が歌っています。

40歳くらいの頃です。

母は父が歌を歌うのを恥ずかしがっていましたが、

まあまあ味のある歌になっていますので、

もしよろしかったらお聴きください。

(どなたかがあげているYouTubeですが)





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