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焼け跡の少年たち


毎年8月になると戦争を振り返るドキュメンタリーやドラマが放送されます。 心がかき乱されますし、正直言って見るのは辛いですが、 今年もできるだけたくさん見て過ごしました。 年に一度でも、こうやって自分の ”戦争アレルギー” を強化するのが 私の年代にできるせめてものことだと思うので。 父も母も、小学生時代が丸ごと戦争。 考えてみると、両親からは戦争中の話よりも戦後の話を 多く聞かされた気がします。 子供の目から見た戦争中の生活は 思い出したくも話したくもなかったのかもしれません。 父がよく話していたのは、渥美清さんのエピソードです。 永少年が疎開先から東京浅草に戻ったのは敗戦の翌々年、 中学生になっていました。 東京の下町はまだ大空襲の焼け跡が残っていて、 子供たちは鉄クズや鉛管を拾い集めては売って小遣い稼ぎをしたといいます。 そんな中で、元締めのような役割の、少し年上のお兄さんたちがいて、 そのひとりが渥美さん。 渥美さんと父は、焼け跡で出会った仲でした。 17歳の時に空襲で家を焼け出された渥美さんは、当時の多くの青少年同様、 生きるためにずいぶんいろいろなことをしたそうです。 ある時、町で歩道と車道を仕切る鎖を盗もうとして、おまわりさんに 見つかりました。

そのおまわりさんがかけた言葉が 「おまえさんみたいな、一度見たら忘れないような顔のヤツは  盗みには向かないぞ。フランス座へ行って芸人になれ」 フランス座は当時、浅草六区にあった演芸場。 おまわりさんはこの時期、仕方なく人の道に外れることをする子供たちを たくさん見ていたでしょう。彼らを規則通りにしょっぴいて罰することが 警察の仕事ではあります。 でも、このおまわりさんがある少年の悪さにちょいと目をつぶって、 何気なくかけた言葉が、少年の人生を変えたわけです。 渥美清さんがこの人と出会わなかったら、映画「男はつらいよ」シリーズも 国民的人気者「フーテンの寅さん」も生まれなかったかもしれません。 今回の《ろくすけごろく》は、 後年、父が警視庁の警察学校で講演した時のものです。 これから警察官になる若者たちに、六輔が贈った言葉。 警察官の皆さんは、厳しい仕事でも、 自らが〈正義〉そのものになっては、頑なな、幅のないコチコチ人間になって、 相手の立場や人それぞれを考えた対応もできなくなる。 せいぜい〈正義の味方〉くらいのところが大切なのではないかと思います。 永六輔をこの講演に呼んだのは、当時の警視総監だったそうですが、 こんなことを言うなら呼ばなければよかった、と後悔なさったでしょうか。 その元・警視総監、秦野章氏の著書にこの話が記されているということは、 いくらかは賛同してくださったと考えて良さそうです。 父がこの話をした時、頭の中には 渥美さんに「フランス座へ行け」と言った、あのおまわりさんのことが 思い浮かんでいたのではないかと思います。 もちろん、戦後の混乱期とその後の時代では話が違うでしょう。 でも、どんなことにも必ず、ちょっとしたゆとりや遊び心があるのが 人としての理想、と感じていた父らしい発言でした。 巣立っていった警察官の皆さんが、この言葉を真に受ける必要もないのです。 「正義の味方くらいのところ・・そんなこと言ってたっけ」 と心の片隅にうっすらと覚えているだけで、 もしかしたら、何かがほんの少し違ってくるかもしれない ・・ ”くらいのところ” が、六輔の狙いだったのではないでしょうか。




《 八月の一句 》  焼け跡の 思い出となる 残暑なり              (1993年)






​文:永麻理