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お話し供養

今年は、母が他界してちょうど20年になります。

永昌子は、11月6日生まれで、

六輔と結婚し、1月6日が命日・・・

”6”という数字に縁がある人だったようです。


昌子はつねに前向きで

打てば響くように頭脳明晰、

周りを惹きつけずにはおかない人でした。

22歳だった六輔は

大学時代から放送作家として多忙な中、

テレビ局の廊下で

女優デビューしたばかりの昌子を見かけて一目惚れ。

「キミは女優よりもボクの妻になるべき人だ」

と強引に説き伏せて、かなりの速攻で結婚。


以来、娘の目から見ても感心するほど

妻に対して生涯変わらぬ惚れ込みようでした。

本人に面と向かって褒めるのは当たり前、

ときには娘たちに向かって

「うちの昌子サンは本当に素敵だね!」と

嬉しそうに言うのです。

六輔といえば ”江戸っ子” と言いながら

「実はラテン系なのか?」

と思ったものでした。

夫婦一緒に歩くときは必ず手を繋いでいて

それは歳をとっても変わりませんでした。


とにもかくにも

永六輔は、あの妻がいてこその人物でしたし、

昌子は強い人間力のある人で

「この人がそばにいてくれれば、きっと大丈夫」

と思わせる何かを持っていましたから

当然、永家の精神的支柱でした。


病気らしい病気はしたことがなかった母が

あるとき珍しく体調を崩して、検査を受けたところ

いきなり「余命2,3ヶ月」の宣告。

いま思い出しても、父娘はパニック状態でした。

そこから、父は仕事を最低限に絞り込み、

家族フル稼働で在宅看護の末、

母は7ヶ月間頑張ってくれて、逝きました。

享年68歳。


当時の姉と私は、母を失った辛さと同じくらい

最愛の妻を失った父をどうしたものか、

という問題が心に重くのしかかり

大柄だった父の背中がなんとも弱々しく

小さく見えました。



今回の《ろくすけごろく》は

妻を亡くして10年ほど経った頃に書いた

『永六輔のお話し供養』(小学館)という本の

「はじめに お話し供養するということ」から




人の死は一度だけではありません。

最初の死は、医学的に死亡診断書を書かれたとき。

でも、死者を覚えている人がいる限り、

その人の心の中で生き続けている。


最後の死は、死者を覚えている人が

誰もいなくなったとき。


そう僕は思っています。





「はじめに」の文章はさらに続きますが

とても心に沁みる内容で

とくに、大切な誰かを亡くした経験のあるかたには

ぜひ読んでいただきたいです。


そこに書かれているとおり、

父は《お話し供養》として

”先に逝った誰か” のことをよく話していました。

家族でも友人でも、少しでも ”最後の死” を

先に延ばそうとしていたのでしょう。


我が家では、母亡き後も、父が

「昌子サンの誕生日だから食事に行こう」

と、生きている家族の誕生日と同じように

孫たちも集まって食事会をしていました。


父が日記がわりのように

亡き昌子宛てに書いては投函していたハガキは

父自身があちら側に逝くまでの14年半で

ゆうに1000枚を超えていました。

そんなふうに、父は母を生かし続け

母は父の”支柱”であり続けたのだと実感します。




僕たちは死者と共に生き、

自分が死ねば誰かの心に記憶として宿る。




お寺の子だった父は、もともと

”あの世” と "この世” の境界線を

強く意識していなかったのかもしれません。

この考え方を持っていると、

自分が遺される側のときも

ひょっとしたら、逝くときも

少し気持ちが楽になれる気がします。




こうして書いていることも

私にとっては、両親への”お話し供養”。

お付き合いくださって

ありがとうございました。






《一月の一句》

看取られるはずを看取って寒椿

            (2002年)




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​文:永麻理