今年の夏は、日本の気候が別次元に移行したのではないかと
感じさせる酷暑です。
地震や豪雨などの自然災害も多く、のんびりした夏休み気分とは
ほど遠いなか、世の中はお盆休みに入りました。
我が家は江戸の昔から先祖代々東京暮らしなので、
私には ”帰省” という経験がありません。
生まれ育った土地を離れて生活している人たちが
故郷に帰るときの懐かしさや安心感を想像すると,
羨ましくもあります。
帰省して親戚の人たちと集まったり、お墓参りに行ったり
という昔ながらの過ごし方をする人が、
今の時代にどれくらいいらっしゃるのかはわかりません。
夏季休暇として旅行やレジャーに出かける人の方が多いのかもしれません。
それでも、世の中では律儀に「お盆休み」と呼んでいます。
それが ”文化” ということなのでしょう。
お盆、そして盆踊りについての《 ろくすけごろく 》
亡くなった方を「あの世」から「この世」に招くというのがお盆の行事です。
迎え火を焚いてお迎えして、飲んだり食べたり踊ったりして、
亡き人たちはまた「あの世」に帰っていきます。
ここで大事なのは「あの世」です。天国ではありません。天国はキリスト教です。
その先祖の霊が迷わずにふるさとに帰ってこられるように、
この世からサインを送っているのが盆踊りの「やぐら」であり、
「ちょうちん」の明かりであり、踊る人たちなんです。
本来は煌々と光る電気の照明をたいたらダメなんです。
ちょうちんや月明かり、ぼんやりと薄暗い踊りの列の中でこそ、
ご先祖様が一緒に踊っていることを実感できる。
頭巾や笠で顔をすっぽり隠して踊るお祭りもそうです。
誰だかはっきりわからないから、ふっと見ると、
あっ、死んだおばあちゃんがあそこで踊っている、
死んだおじいちゃんがあそこにいる、……そういうことだと思うんです。
こういう暗さの中で私たちはご先祖様と話をしてきました。
亡くなった方と話し、亡くなった方とお酒を酌み交わし、
亡くなった方と踊ってきたわけです。
薄暗がりの、顔の見えない盆踊りが、
この世のわたしたちとあの世の人たちを繋げてくれるのです。
そんなふうに共にお盆を過ごして、また来年帰ってきてね、と
亡き人たちをまた見送る・・・
そして自分もいつかあちら側に行ったとき、
その流れに魂を委ねてこの世に戻ってくるのだろうか、
と考えると、なんとも厳かで、穏やかな気持ちに包まれます。
実を言うと、私自身は盆踊りに参加したことがありません。
でも、昨年度のギャラクシー賞選奨を受賞したドキュメンタリー
秋田放送の『幾月夜纏ひて 羽後町・西馬音内の盆踊』を見たとき
お祭りが近づくと血が騒ぐ地元の方々の雰囲気や、
歴史ある盆踊りのために、町の人たちが毎年気持ちを込めて準備をし、
親から子へ、この美しい伝承をつないでゆく姿に、
私にはご縁のない土地のお祭りと踊りなのに、
魂をつかまれるような感覚を覚え、胸がいっぱいになりました。
子供の頃にはなかった感覚ですが、歳を重ねるごとに
「あの世」に身内も知り合いも増えてきたからでしょうか。
「お盆」と言う風習にあらためて感動する今日この頃です。
とはいうものの、父について言えば
「僕はキリスト教ではないので天国には行きません。
行くとすれば西方浄土ですが、普段は草葉の陰にいますから、いつでも会いにいらっしゃい」
と常々言っていたものですから、
結局、我が家はお盆だからといって、何も特別なことはしていません。
今年は草葉の陰も暑くてたまらないでしょうから
庭に多めの水撒きでもして過ごします。
《 八月の一句 》 踊る列 西方浄土に 消えてゆく (2004)
ご興味がありましたら、番組の一部をご覧になれます。
『幾月夜纏ひて 羽後町・西馬音内の盆踊』(ABS秋田放送)
幼い頃はお盆と七夕と終戦がごっちゃになってよく解らなかったので、母に訪ねたことがある。母は「うらぼん」と教えてくれたので、お盆には裏と表があるのかなあと(笑)
永さんは俳句の会の皆さんと毎年ジャカルタを訪れてこられたので、俳句の発表会に駐在員も参加していろいろお話を聴かせてもらいました。とても懐かしいです。