​永 六輔   (放送タレント)

《写真・TBSラジオ提供》


≪ 略歴 ≫

昭和8年4月10日 東京・浅草の最尊寺の次男として生まれる。

幼少期は身体が弱く、病院で過ごす時間が長かった。

戦争中は学童疎開で東京を離れていたが、疎開先でのいじめなど辛い体験の後、敗戦を迎えて戻った東京は空襲で一面の焼け野原、生家の最尊寺も焼けてしまっていた。子供ながらの戦争体験は生涯を通して色濃く影響している。

戦後間もなく、中学生でNHKラジオ『日曜娯楽版』にコントを投稿し始めると頻繁に採用されるようになり、それがきっかけで高校時代には『日曜娯楽版』を作った三木鶏郎氏に師事、放送局に出入りして働き始めた。

早稲田大学在学中にはすでに放送作家として売れっ子になっており、テレビには実験放送から関わる。

ラジオでは作家として参加していた『昨日のつづき』(ラジオ関東)に、台本を書くより自分で喋ってしまったほうが早い、と自ら出演するようになり、これが日本で初のフリートークの番組となった。

テレビジョン放送が始まると、NHK『夢であいましょう』をはじめ、数々の番組を手がけ、テレビの草創期を担う存在となる。

一方で、作曲家・中村八大氏の誘いで作詞を手がけるようになり、最初に書いた『黒い花びら』が第一回レコード大賞を受賞。
その後、『上を向いて歩こう』、『遠くへ行きたい』、『こんにちは赤ちゃん』(第五回レコード大賞受賞)、『見上げてごらん夜の星を』など、幾多のヒット曲を生み出した。

テレビ番組の作家・司会、ラジオのパーソナリティとして活躍しつつ、学生時代から師と仰いだ民俗学者の宮本常一氏の教え「放送の仕事をするなら、電波の飛んで行く先へ出かけて行って、そこで見たこと聞いたことをスタジオに持ち帰って発信しなさい」という言葉を守り、全国・海外への旅を生活の軸に置いて仕事を続けた。

その旅暮らしの見聞の中から、独特の感性で語るべき言葉を紡いでいくと同時に、市井の人々の言葉を集めた著書を数多く出している。
特に「老い」や「死」についての言葉の数々を綴った『大往生』(岩波新書)はベストセラーとなった。

子供の頃の戦争体験の影響もあり、常に権力や体制に疑問の目を向け、おかしいと思ったことには声を上げる「反骨の人」でもあった。代表的なのは「尺貫法復権運動」である。

メートル法の施行によって尺貫法が禁止となり、古来長く使われてきた尺貫法を用いることや曲尺鯨尺の販売が処罰の対象となってしまう状況に疑問を呈し、日本の伝統を支える全国の職人たちの仕事が立ち行かなくなることを世の中に広く訴えて、尺貫法の復権に貢献した。

また、弱い立場の側に身を置くという精神から、全国各地でのボランティア活動にも積極的に参加した。

多分野にわたっての活動を繰り広げながら、本人が最も中心に据えていたのは、ライフワークとしてきたラジオであった。
自ら黎明期を支えたテレビはある時点から距離を置くようになったが、TBSラジオ『永六輔の誰かとどこかで』は46年9ヶ月という長きに渡って番組を続けた。 

晩年はパーキンソン病を患い、思うように旅を続けることが難しくなったが、ラジオでは80歳を過ぎてなおメインパーソナリティをつとめ、多くのリスナーに慕われる存在であった。

闘病の末に息をひきとったのは、自身最後の冠番組となった『六輔七転八倒九十分』が終了した10日後のことであり、生涯現役を貫いた。


平成28年7月7日 東京・渋谷の自宅にて死去。

 

 

 



≪ 年表 ≫
 

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